「自覚と責任をもって決める」ー 生徒さんからいただいたトピックについての私の思い

あるヨガ生徒の話。「このブログで紹介されている沖正弘導師の哲学を読んで、考えて分かったつもりになっても、実生活でなかなか使えません。例えば、ヨガレッスンを受けた後フィードバックを書くように言われると、絶対に書くべきものだと思ってしまっていて、後で先生に『書かないという選択の余地もある』と言われた時には大変驚きました。そういう自由があることに気づかないで、自分を習慣的なパターンに閉じ込めているかもしれません。でも、そういう自由に選ぶには、覚悟して責任を負うことが伴うので、その重みに圧倒されてしまって、できないような気がしまいます。」

これについて私が思うことは次のようなことです。

他の人から設定されたことにそのまま従うのは、一見、取り掛かり易いのですが、どこかの段階で、どの程度やるか自分で選ばなければならないことになります。フィードバックを書くという例に沿って言うと、フィードバックを書くことを絶対のルールとして受け入れて書くとしても、どの程度の分量をどの程度の精密さで書くかは自分で決めなければなりません。普通は、無意識にいつもと同程で書くかもしれませんが、周りを見てみれば、、ある人は2ページ書き、別の人は半ページ書いていますし、内容も違います。つまり、その時点ですでに、ある意味での自由さを採用しているのです。学校のテスト式と違って、ヨガの先生は多分、出来栄えに評価点をつけないでしょう。それは、ヨガの先生が見ているものは、生徒のフィードバックの中に、その人の成長に役立つような新しい気づきや反省点が書かれているかということだからでしょう。

だから、「レッスンには出たけど、家のことや仕事が立て込んでいるし、体調も良くないし、今回はちゃんと向き合って書くゆとりがない」という時は、その状況を自分で認め、自分の責任として「今回はフィードバックは書かないことにする」と決める、ということです。私は、「そのようにすべきだ」とか「すべきではない」とか言っているのではありません。現実を直視し、熟慮し、自分の感じを確かめて、自分で何らかの結論に至る必要があります。

まさか、「無理を押して書いたら、先生は褒めてくれるだろう」とは期待されていないと思いますが、私たちの殆どは普通、他人の目を通じて、つまり、自分自身を除くすべてからの評価を想定して、物事をする癖になっているのではないでしょうか。多分子供の時の教育から始まって。 

しかし、沖導師のような哲学に触れることができるようになった今、その癖から抜け出すチャンスがあります。「自分で褒めることのできる者になりたい」と、沖導師はよく言われました。また、スタッフの誰かがミスをしたときは、「じゃあ、それについてお前はどうするんだ?」と本人の自覚を促して処理の仕方を本人に決めさせていました。その上で、もう少し良い処置の仕方があればアドバイスされていました。最初から最後まで、沖導師が設定して生徒にその通りにやらせるというのはは、沖導師のやり方ではありませんでした。

ヨガは「自分が自分の主人公になる」ことを教えています。自立と自覚です。それには、体を訓練する場合と同じで、今自分にできることから始めて一歩ずつ能力を積み重ねることがすべてです。この際、自分の個性を表現するやり方でやると、つらくつまらない努力ではなく、楽しこととしてできます。

別の角度から見ますと、「自覚と責任をもって決める」ということには、「自分が今日まで積み上げてきた実績への自覚」が含まれます。それは他の人の目から見れば小さい実績かもしれなくても、自分にとっては、それ以外のやり方ではありえなかった、これまでの人生で作ってきたものです。「これまで生きてきたこと」、これが自分にとって一番大きい実績です。また、「自覚と責任をもって決める」ということには、「宇宙が自分に与えてくださったすべての御恩によって、これまで生きてくることができた」という自覚が含まれます。そしてまた、「宇宙からいただく御縁と自身の努力と感謝をもっていけば、これからも生きていけるに違いない」という信が含まれます。

「自覚と責任をもって決める」をこのように受け取る意識を開拓すると、気張りや重みに圧倒されるよりも、「だから頑張ろう」という暖かい励ましが自己のうちから湧いてくるように思います。

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