沖正弘先生の著書「ヨガによる生きる喜びの発見」第1部、第1章の3番目の節「健康をつくる三原則」の英訳を英語のブログに載せました(10月2日)。日本語では、本を読んでいただきたいと思います。この記事では、それを読んで湧いてきた私の思いを述べます。この節の中で沖先生は、以下の三つが「人間としての健康をつくる上での原則」と述べられています。
1)- 生理的バランス維持能力を高めるには、つねに自然な姿勢を保つように意識的に努力し、食事に工夫を凝らし、完全呼吸を行なって感じる力を正し、体の働きを整え高めていくことが肝要である。
2)- 精神の安定性を高めるには、ものごとに対する理解力の向上を図り、正しい感情と欲求を身につけ、できるだけくつろいだ気持ちに、すなわち放下した状態に自分をおくようにし、すべてに和合できる能力を養うことである。
3)- 生活面での適応性を高めるには、何ごとにせよ、あらゆる事柄を積極的かつ意識的に体験するように努め、調和維持能力を高めることを通じて、より進化した生活者になることである。
その後に沖先生は続けられます。「 …… これらはいずれも、生命の本来の働きをいかにして十全に発揮させるかという工夫にほかならない。」
この三つのうち、皆さんにはどれが最も響きますか?今の私には、2)が最も響いています。とりわけ「正しい感情」という語句に。普通には「感情は自然に湧いてくるものなのに、正しいとか間違っているとかあるのだろうか?むしろ、『間違った感情』と言う場合、私たちは判ずることができないものを判じているのではないだろうか、あるいは、私たちに起こる自然な感情の正否を、誰かまたは何か他のものが決めることを許していることになるのではないか?それはむしろ心を緊張させるのでは?」― そう思いませんか?
それなのに、この語句は「正しい」と「感情」を結びつけているのです。そこに、私は沖ヨガの哲学を見ます。つまり、ここで言われている「感情」とは「仏性から湧いている感情」なのです。この感情は、他から強制されたものではなく、あくまで自分自身の感情であり、それと同時に、真理を探究する修行を通じて発達する感情です。自分の内から湧いてくると同時に自然法則に沿った感情なのです。 もちろん、この2)の文章は、こうした分析するまでもなく、即座に私の心に響いたのですが。
私は、沖先生に任命されて1984年に日本から英国に来て、当時新たに作られたチャリティ会社に雇用されて沖ヨガ活動をしました。若く未熟な外国人であった私は、英国での沖ヨガの代表という立場に置かれました。また、子育てもしていました。経済的、精神的、実際的に、仕事でもプライベートでも苦労の連続、常にギリギリの状態でした。一番つらかったのは、沖ヨガを英国で普及させるという仕事で期待されていることに応えるにはあまりにも未熟であり能力に欠けていると感じることでした。なぜなら、私の中では、沖先生の哲学的な教えに触れる活動でなければ、沖ヨガは沖ヨガにならないからです。沖ヨガでは、哲学、方法、精神的教えは、切り離せないのです。そこで、自分の力不足を承知しながらも仕事をするために、渡英寸前に沖先生がおっしゃって下さった「どんなに小さくてもいいから誠実なグループを作りなさい」という言葉を指針としました。それに基づいて大きな事故なく活動を続けることができました。イギリス沖道ヨガは物質的な形状として大きな規模にはなりませんでしたが。「自分の精一杯で頑張ってるんだから」というのが、私の言い訳であり慰めでした。こうして38年間仕事を続け、この8月末に雇用から退職しました。今後もボランティアで続けていく部門もありますが。
その解放感というか安心感とは、次のようなものだったと思います。私は「自分は十分ではないけれども一生懸命やっている」という感じに長いこと心を閉じ込めていた、その緊張状態で分泌されるアドレナリンによって自分を鼓舞していた、そして8月31日の終わりに心が解放された途端に、別の思い、「実際は多くの人達が心から手伝ってくれたからやってこれたんだ」という感じにすぐスイッチが入った、ということです。その切り替えは殆ど瞬間的に起こりましたから、論理的には私の心はそのことを知っていたのです。しかし、私の心は長い間、非常に緊張した状態にあったのだと思います。上で挙げた、健康の原則2)として沖先生が言われている、「できるだけくつろいだ気持ちに、すなわち放下した状態に自分をおくようにし」ということは殆ど味わったこともなかったような気がします。 心身の調子が悪いときや仕事の問題があるとき、私の心は「当面現れている問題」を除去することに忙しく、「生命の本来の働きをいかにして十全に発揮させるか」ということをじっくりと考え感じることはありませんでした。
さらに私の思いは続きます。2)で言われている「ものごとに対する理解力の向上を図る」ということは、「言葉の字面に沿って解説できるようになる」ということではありません。それも含みますが、それ以上です。私が思うには、「ものごとに対する理解力の向上を図る」とは、「視野が拡大されていて、『物事が起こっているのには広く深い範囲に及ぶ因果関係がある』ことに気づいてそれを謙譲の心で受け入れることができるようになる」という意味です。私たちの日常生活や仕事上の人間関係では、例えば、約束されていた事を説明なく相手が行わない時、理屈では人にはそれぞれ事情があると分かっていても、感情では悔しくて納得できないということは、よくあります。どのようにしたら、実は許していないのに許すふりをしたり、逆に「どうでもいい」と投げやりなったりせず、それを受けとめることができるのでしょうか?自分の正直さと「神性」を見失わずに、「自分の理屈を超えたところにもっと多くの要因があって今の状態を作り出している」という事実を喜んで受け入れることができるのでしょうか。私たちは、自分の限られた理由付けの中で窮屈に閉じてしまっていることがよくあると思います。大きな視野に立てば、明確に一歩一歩努力することで物事によりよく対処できるかもしれないのに。これは、私たちの真理探究の道における長期的な課題だと思います。
私の体験は、「ずっと一生懸命やってきて、退職してほっとした」という単純な話であり、または、「実際にプロセスを体験しなければ起こり得ない」心の成長についての単純な例と聞こえるかもしれません。しかし、私は以下のように受け止めています。
「与えられたあらゆる状況に真摯に向き合いながら学び向上することが私にとっては必要不可欠なことだった、体験したことは心の奥に蓄積されていて、今のこの瞬間にも私の人格形成を助けている、現に私には、以前よりは少しでも大きい視野をもって今後の活動をして行こうという意志が芽生えている」と。大きい視野とは、沖ヨガを学んている私にとっては、「それぞれのものが生命の本来の働きをいかにして十全に発揮させるか」という視点に立つという意味になります ……
この記事を読ませていただいて、胸が熱くなりました。外国で子育てしながらご活動され、大変なことがたくさんあったとおもいます。長い間おつかれさまです。
私は、朝子先生からたくさんの沖ヨガの哲学を学ばせてもらってます。沖先生のご書物だけでは理解できなかったことも、朝子先生の体験を通してのお言葉から、少しずつ理解を深めることができました。
沖ヨガの哲学を学ぶことで、ひとりひとりが持っている才能を発揮して生き生きと過ごせるお手伝いができるよう、頑張っていきたいと思いました。いつも素晴らしいレッスンもありがとうございます。
赤松さん、コメントありがとうございます。赤松さんはご自分の個性で独創的な活動をされていると思います。
森朝子先生、これまでの足跡に深く感謝申し上げます。異国の地で、沖ヨガを広めるために積み重ねてこられた様々なご経験から、今の授業があるのだと思うと、本当にありがたい気持ちでいっぱいです。わたしは、先生の発せられる「ことば」から、先生の中のヨガ哲学を感じ取っています。これからも、たくさんの学びを頂きます。ご指導のほど、どうぞよろしくお願いいたします。
大西さん、コメントありがとうございます。お互いに、与えられている縁において静かに頑張っていきましょう!!
三界 は ただ 心 ひとつ なり一色一香一蒸気無非中— 中道なら.歩いて行きます.手摘みツバメの巣