宗教的な生き方とは – 2 /全3部

沖正弘先生監修の月刊誌「ヨガ」昭和44年4月号での先生の文「宗教的な生き方とは」を、先生の言葉遣いを大切に、要約しました。長いので3回に分けて投稿します。

D. 自分を他の中に生かせ

12– 「人間としての使命を自覚する」とは、「社会的生活者として、地球全体のバランスをとることを意識的に心がける」ことである。これは自分自身のバランスをとる訓練をすると同時に、他と自分とのバランスをとることを心がけることである。これが愛である。この愛を行ずるためには、自分を大きく生かすのが良い。それは、自分を他の中に生かすことである。他のために尽くすことを念頭に置き、他を生かすことによって自分も生きることが、人間としての自然の道である。他を守った程度に自分が守られ、他に利益を与えた程度に自分に利益が与えられ、他に喜びを与えた程度に自分も喜ばせてもらえ、他を救った程度に自分も救っていただけるものである。

13– 人は、幸福、安らぎ、喜び、自由を求めているが、多くの場合、生き方が逆方向へ向かっているようである。生活を正す以外に真の喜びは与えられない。生活を正すとは心を正すこと、心を正すとは考え方を正すこと、考え方を正すとは「自他の共存共栄の道を見つけること」である。

14– この心の基本になるものが、感謝心、懺悔心、下座心、奉仕心である。あらゆる宗教は結局は皆このことを教えているのだと思う。

E. 愛の行者になろう 

15– 感謝、懺悔、下座、奉仕の四つの心を実行している生活者を「愛の行者」という。愛を正しく行じ得るためには、正しい判断力と、感知力と、実行力とが必要だ。

16– よい教えは数多く教えられているのに、その効能が人間社会に現れていないのは、実行しないからである。だから、私は実行を主眼としたいという心から、私が主催するヨガの会に「求道実行会」という名をつけた。ヨガの道場は、実行力を身に付ける場所なのである。

17– 愛の行者になるためには、全肯定、全活用の境地を体得することが必要だ。自然は、如何なるものをも否定しない。すべてのものを肯定し、活用する。否定すれば、対立したり、差別したり、逃げようとしたりする。肯定して積極的に対処しようとするとき、相手も生き、自分も生き得る活路を発見することができる。生かす心――これが、自然の心であり、これを意識的に合理的にやるのが愛行である。

F. 宗教的な生き方をするには

18– 人間的自然心を持って生きる、即ち宗教的な生き方をするには、意識的に自分を他に捧げることが必要である。例えば、朝目が覚めると同時に、「よし、一つでも二つでもよいから、今日はできるだけ人のためになることをやろう」と決心するのである。他を愛するには、意識的に他に心配りをすることが必要だ。それは、私達は無意識的に自分の事ばかり考えてるからである。

19– また、一切のものを神であると意識する訓練が必要である。このようにすべてのものを神と受け取る境地を「感謝して礼拝する境地」という。神にお仕えするという気持ちになれた時、正しい考え方と扱い方が自然に出てくるのではないだろうか。自分の心を尊くすれば、そこに人間としての喜びが生じてくるのだ。

20– 自分も他も神であるという自覚がないと、ついつい自分にも他にも悪いことをさせてしまう。自分の身体は尊い身体だと自覚する時、自然に健康に心がけるようになる。病気が嫌だから健康になりたいというだけでなく、「正しく尊く生きるために、全力を発揮しなければならない道具としての尊い身体なのだから、その能力を高めるために鍛える」というのが人間的健康法である。このように自覚すると、生活と仕事の全部を修行としなくてはならないことに気づいてくる。

3/全3稿へ続く

宗教的な生き方とは – 2 /全3部」への2件のフィードバック

  1. 自分自身の心と体と魂に感謝すること。
    出会うすべての人々に、ものたちに、感謝すること。
    すべての出来事に、感謝すること。
    感謝を言葉にすることを、今、続けています。

    ようやく、すべてが一つであることが、うっすらと理解できるようになりました。
    ヨガ哲学の学びは深く、日々の生活に根差していると思います。
    その学びにであえたことに、心から感謝しております。

    • 大西さん、コメントありがとうございます。私も毎日を丁寧に生きたいと思います。一人一人の行動できる範囲は限られているようですが、心は限りなくずっと広がり深まることができると思うと、安らかになります。

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