沖正弘先生監修の月刊誌「ヨガ」の昭和43年3月号における先生の文「尊愛を行じるのが人間の価値です」を、要約しました。
「仏性を開発せよ」
人間的ということと動物的ということの違いは何か。ただ生きているのは、動物的な生存である。人間は動物ではあるけれども、人間的な生き方をしなければならない。人間的な生き方をするために必要なことは、尊さを感じることである。おそらく動物は尊さなど感じないだろう。ありがたいことに、人間は意識的にそういうふうに自分を作り上げる能力を与えられている。この能力を仏性という。
尊さを感じるためには、真理を自覚する以外にない。真理を自覚するとは、意味と価値を知ることである。意味と価値を知るから尊さを感じることができるのである。最高に知性が高まり、最高に感じ方が高まり、そして最高の感情状態が発動している状態が仏性の発現である。そしてこの、すべてのものの中に潜む尊さ、価値を神性という。それを感じとる能力が仏性である。私達は仏性を開発するために教育を受けているのである。修行の目的もまたそうである。相手に尊さを感じると同時に、相手に尊さを感じさせる努力をしなければならない。
「愛するには二つのことが必要です」
相手に尊さを感じさせるためには、愛を行じなければならない。だから、愛の行者であるということが人間として一番尊い。ところが、愛がすべてであることが分かっていても、愛するにはどうしたらよいのかを知らない人が多い。愛の行者になるためには、次の二つのことが必要である。それは情的に愛の心を感じることと、知的に愛の心を持っていることである。この両方を意識的に訓練する必要がある。
「愛情は接触から」
情的に愛の心を高めるには、相手に深く接することが大切である。意識的に接し、意識的に触れ合い、意識的に面倒を見合うのである。余程の人でない限り、接しもしない者に愛情を感じたりしない。例えば、自分の子供でも、生まれた時から誰かに預けておいて全然触れなかったとしたら、愛の感情を起こすのは難しいだろう。逆に、他人の子供でも、預かって触れ合い面倒を見ていたら、いつの間にか自然に愛情が起こってくる。だから愛情の深い人になろうと思ったら、物でも人でもすべてのものに意識的に接することである。常に意識的に心を配るという練習が必要である。
「正しく愛するには知性を高めよ」
しかし、この情的な愛行だけでは具合が悪い。これは動物でも行う。動物の親子愛は美しいが、人間の場合には、知性が加わらなくてはならない。なぜなら、正しい愛とは、相手が正しく生きること、正しく伸びることに協力することだからである。自分にも他人にも真理に従った生き方をさせることが真の愛である。このためには真理が何であるかを知らなければならない。
知的愛を抜きにした情的愛だけでは、非常に誤った愛の方へ陥りやすい。動物は余分の愛し方をしない。人間の情に偏った愛は、必要以上のことをしやすい。多くの人の親子関係においてそれが起きている。情に傾いて余分なことをし、正しく生きる、強く生きる、清く生きることの逆をしていることが多い。これは、愛してはいるのだが、相手を駄目にしてしまう。そうしないためには私達は知性を高めなくてはならない。
知性の高まったところの愛情を尊愛あるいは聖愛と言う。愛の心は動物でも持っている。しかし、人間の愛は尊い愛、清い愛でなくてはならない。キリストの言われた愛や釈迦の言われた慈悲は、ただの愛ではない。尊い愛を行ずるために、私達は知性を開発することによって相手を理解した上での愛情を培うべきである。
「バランスのとれた愛とは」
仏教で言う慈悲は、バランスのとれた愛のことである。一切のものには陰陽両方の刺激が必要である。暖め過ぎてもいけない、冷やし過ぎてもいけない、両方やらなくてはいけないのである。どちらに傾き過ぎてもいけないのである。万物万象は陰陽両方の刺激、温める刺激と冷やす刺激、求心的刺激と遠心的刺激のバランスがとれているときに、初めて育っていけるのだ。
ところが知性に欠ける愛は、苦しめることは悪いことだと思いやすいのである。冷たい思いをさせることも必要なのだ。つらい思いをさせることも必要なのだ。暖かい思いをさせることも必要なのだ。だから、真理の体得者のみが正しい愛を行じることができるのである。人間の生き方は愛の行者としての生き方でなければならない。愛の行者となるためには、どうしても知性を高めなければならない。そのために学ぶのである。そしてバランスのとり方を体得するために、いろいろな体験を意識的に行うのである。そういう尊い目的をもって訓練する場合を、修行あるいは修養という。
先に述べた冷たい性質のことを、仏教ではセイシと言っている。「勢思菩薩」のセイシである。(ブログ筆者注:沖先生の文章では『勢思菩薩』と書かれているのでその通り書いたが、これは『勢至菩薩』のことだと思う。智慧の光で人々を救う菩薩。)
暖かい刺激のことをカンノンという。「観音菩薩」のカンノンである。(ブログ筆者注:『観音菩薩』は慈悲で人々を救う菩薩。)暖めるだけではどうしても弱くなってしまう。強くするためには苦しめることもまた必要なのである。
「わがままごころを捨てよ」
私達人間は意識的にバランスのとれた生き方をしなければならない。それが本当の意味での自己愛である。「自分ほどかわいいものはない」と言いながら、それなら本当に自分をかわいがっているのか?自分がだめになる方に、弱くなるようにもって行きながら、自分を愛していると思ってはいないだろうか?本当の意味で愛の行者になるためには、わがままごころを捨てなければならない。多くの人は、好きだ嫌いだ、損だ得だというような自分勝手な心で、逃げようとする。一つのものでも嫌いと感じることは、相手の尊さを無視することである。好き嫌いを感じるのは動物的な意味で当たり前だが、人間としては如何なるものをも好きになるという努力をしなければならない。それで初めて愛の行者になりうる。
「人間の価値は好きになれること」
人間の尊さというものは、知性を高めることによって、意識的に相手の価値を理解でき、どんなものに対しても好きと感じることができるようになれることである。
「愛されていることを知ろう」
自分が愛を行じ得るためには、自分が愛されてることを意識的に感じとることが必要である。それを感じとれないから、行じることができないのだ。愛を感じるためには「おかげ」を感じなけれならない。「すべてのものは皆私のことを思ってくれているのだ」、「私を私たらしめているのは私以外のものなのだ」と感じなければならない。自分を親にしてくれたのは子供であり、子供にしてくれたのは親であり、夫にしてくれたのは妻であり、妻にしてくれたのは夫であり、主にしてくれたのは従者であり、従者にしてくれたのは主である。店にしても、売る者と買う者があってはじめて店が成り立つ。売る方だけでも、また買う方だけでも店にならない。そのことを感じるのだ。自分を親にしてくれたのは子供だから、子供に対するご恩を自分はどれほど感じているか反省するのである。自分を妻にしてくれたことをどれだけ夫に感謝しているか、自分を夫にしてくれたことをどれだけ妻に感謝しているか。これが愛を感じる能力である。
感謝を感じるためには、意識的に感激する努力をしなければならない。そのためには知性が高くなければならない。理解できないから、また理解しないから、感謝もできないし、感激もできないのである。
そのように反省していった時に初めて宗教で言っている、懺悔の気持ちも起こってくるのである。一つ一つこうして考えると、「なるほどなあ、自分は感じる力もなければ、報いる能力も無い。済まないなあ」というお詫びの気持ちが起きてくる。
他の人に聞かなくても、静かに考えてみれば自分の心の状態は自分でわかるものだ。そのために冥想行法を行うのである。ただすみませんと謝ったり、形だけひれ伏しても、悔い改めにはならない。感謝とお詫びの境地は下座と奉仕の心として現れる。
「お返ししましょう」
「これほど与えられている。これほど愛されている。これほど守られている。だから自分は生きているのである。生きるに必要なすべてのものを与えられているから、こうして生きているのである。」これが愛されているという事実である。だから今更何かを求める必要はない。逆に、お返しすることを考えるべきである。
多くの人は既に与えられているにもかかわらず、、その上まだ求めようとする。この誤りに気が付いて、「ああ、すみませんでした、お与えいただいたものをお返しさせていただきましょう」という心が、奉仕の心である。何を一体返せばよいのだろうか。それはいただいて持っているものをである。例えば朝目が覚めた時、まず初めに、「目が覚めたのは生きるに十分な体力を与えられていることだから、今日一日この体力をお返しよう」と考えるのである。小さい時からたくさんの知識をいただいている。その知識をいただきっぱなしではしようがない。お返しすることを考えるのである。自分にないものを出せというのではない。自分に今あるものを出すことを考えればよいのだ。
少しでも多くのものを出すためにはいろいろの体験が必要だ。「助けてあげたいなあ」と思っても、自分が知らなければ助けられない。セメントこね一つ知っているのと知らないのでは、大きく違う。知っていれば「ちょっと手伝わせて下さい」と言えるが、知らない者が手伝わせて下さいと言ったら迷惑をかけるだけだ。だから、常に意識的に自分の体験を増やして、お返しできるもの、他に協力させていただけるものを、より多く身に付ける努力をするのである。
親は、自分の子供に小さい時からそれをやらせるべきである。他に尊敬され愛されるような子供を育て上げていくことが、我が子に対する本当の親の愛だと私は思う。自分が面倒を見てやろうなどと思うからいけない。自分がいつ死んでも、必ず他から守られて生きていけるような子供にさえ育てておけば、それでよいのである。他に利益を与える者、喜びを与える者、清らかさを感じさせる者、他の人が捨てておかないような人間を育てておけばそれでよいのだ。この不安のない、すなわち、無畏の世界の住人になるという努力が、宗教的修業である。
「救われるのは自分です」
生まれてから今日まで他からいただいて身に付けた技能を出させていただくことによって、初めてバランスがとれる。相手のためにやっているのではない。やらさせていただくことによって、初めてバランスがとれて自分が救われるのである。面倒を見てやるのではない、面倒をみさせていただくことによって、私は救われるのである。だから下座というのである。
このように、奉仕と言っても悲壮的なものではない。報いを求めての奉仕ではなく、感謝の奉仕である。
ありがとうございました。
沖先生の話を聞くと、心が洗われます。
大変良かったです。
本当にそうですね。力強くかつ暖かい感じがします。
与えられ愛されているという事実・・感謝の奉仕・・沖先生の尊い言葉から生きる力が湧きでるように感じます。ありがとうございます。
コメントありがとうございます。沖先生の言葉は私達の仏性に響く言葉であり、仏性は「敵を友人に変え、毒を薬に変え、悲しみを喜びに変え、すべての問題をよいように持って行こうとするもの」なので、深いところでそれを求めている私達皆に、響くのだと思います。