沖先生の講義「ヨガの真髄」から

今日は沖先生の誕生日です。静岡県三島市の沖ヨガ道場跡地は公園となり、目下、記念石碑を披露する式典が催されています。後日、写真などで報告いたします。私は海外からは出席できないので、お祝いとしてこの記事を投稿します。沖先生の1982.05.16の「ヨガの真髄」の講義を聞いて、私の聞き取って理解できる範囲で要約し、日本語でここに投稿し、英訳したものをEnglish-blogに投稿します。沖ヨガから学んでいる読者の助けになれば幸いです。

1. 人間の生き方には二種類ある。人間は共同生活をする。その共同生活をするため、またその共同生活を他から守るために一番都合のいいように規則を作る。その規則に絶対的な権威を付けて「それを守れ」という。またそれに権威をもたせるために、本来はないのだが、都合上、上下の役職を作って上の立場の者に従わせようとする。そういう束縛の生き方に対して、「何物にも束縛されない自由な生き方があるはずだ」と自由を求める生き方がある。この二つの生き方のうち、ヨガは自由を求める生き方である。

2. ところが、自由という言葉を使うと、自分の好き勝手にすると受け取る人が多いが、そうではない。「己の欲するところをなして矩を踰えず」と孔子が教えられたが、これが本当の自由である。やっていることがそのまま法則にかなっている、思いのままに生きてそれがそのまま秩序にかなっている、そういう生き方を自由という。

3. 完全に自由を把握した人のことを「仏陀」という。「仏陀」と言うと、釈迦牟尼が最も有名なので、たいていの人はその人のことだと思うだろうが、釈迦牟尼だけのことだけではない。「仏陀」とは、完全なる自由人になった人という意味である。

4. そのように完全に自由になるためには、悟りを開かなければならない。悟りという字は、日本語の文字では「吾」の「心」と書く。それは、自分が自分の生き方を把握し、自分が自分の主人公になり、自分が自分の命令のままに生きているということだ。私たちは、自分で自分に命令して自分が自分の命令に従って生きているように見えるけれども、殆どそうではない。「分かっているが止められない」というのは、自分が自分の命令に背いている姿だ。自分が自分の支配者になった人を悟りを開いた人という。

悟りを開いている状態を、禅宗では「花は紅、柳は緑」という。赤は赤らしく存在し、緑は緑らしく存在する。これが自然である。

自分がどう考え、どう感じ、どうすればよいか知っており、他の何物にも支配されず、自分が自分として生きている ― こういう生き方をしている人を悟りを開いているという。

5. 悟りを開くには、放下した生き方をいなければならない。放下した状態を、無あるいは空ともいう。それを真我一体ともいう。自分そのものが神様となるということだ。神様という特別のものがあるわけではない。神様とは純粋のもの、本当のこと、真実のことだ。そうなった時はじめて「己の欲するところをなして矩を超えず」となる。

6. 「自己は神なり」という教えが、仏教やジャイナ教のヨガを中心にした教えが他の教えと異なる一大特徴だ。これがヨガの真髄である。自分が神だということは、自分だけが神だということではない。自分も貴い存在であり、他も貴い存在だということである。

7. 「自己は神なり」という教えから初めて「自業自得」の考え方が生まれてくる。一切の責任は我にありということである。私を穢す者も私、私を清める者も私、私を病人にするのも私、私を健康にするのも私、私を迷わせるのも私、私を救うのも私だ。世界中で、今私が言ったようなことを生活の基本として生きている人が果たして何人いるだろうか。自分の救い主は自分であり、運命の創り主は自分である。だからありがたい。

8. 「自己が神である」という教えから考えて、「いのちが神」ということに私は気が付いた。そして、「生命即神」という言葉を作り出した。それは私が初めてだ。

9. 「いのちが神である」ということが分かったら、すべてのことはいのちの喜んでくださるような生き方をすればいいと分かる。いのちは決してうそを言わない。正しいことをすれば、いのちは喜びをもって教えてくださる。間違っていることは苦しみをもって教えてくださる。

10.そして、合わないものを合うものに変える、敵を味方に変える、毒を薬に変える、悲しみを喜びに変える。そのようにしていればすべて味方になる。これを合掌の世界という。合わないものを合うように変えていくことが和合の秘訣である。訓練すれば、そして、知恵が高まれば、それができる。それのできる能力が、人間にのみ与えられているところの仏性力である。

11. いのちの働きはバランス維持の働きである。変化しながら、バランスを維持しながら、安定性を保っている。そして種が種を生む性質がある。そして、必要なところに必要なものを生じさせ、不必要なものを滅するという自存の法則に従っている。その法則を心として、そういう見方をし、それに従って生きる ― これを悟りを開いた生き方という。それを、「ああそうなんだ」と体得する行法を冥想行法という。

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