沖先生の三つの講義からー「冥想について」語られた言葉  

沖先生は冥想について多くの講義をされました。これらの内、三つの講義を聞いて(1982.05.16、198305.01 及び 1983.08.11)、12項目を拾い、日本語でここに投稿し、英訳したものをEnglish-blogに投稿しました。他のトピックや例話と混ぜながら、これらの項目をいろいろの講義でいろいろの順序で話されました。下の12項目の順序は、沖先生の冥想についての哲学が読者に伝わる助けになるように願って、私が自分の観点から作った順序です。私自身の言葉は一切入ってません。それでもなお、一部を選ぶということ、また訳すということは「選者・訳者がその経験で創り上げてきた」ものの見方の影響を受けているに違いありません。沖先生の大きな講義から言葉を拾い上げて、このように紹介できるようになるまでに30年以上かかりました。今後は折に触れて「何のためにこの仕事をさせていただいているのか」と自分に問い、より広く深い観点からできるよう努めたいと思います。

1. 冥想に入るためのテクニックは、音を利用する、臭いを利用する等、さらには体を使ってやる方法、心を、生活を使ってやる方法といろいろある。一番精神統一し安いものを各人が選べばよい。しかし、そういうテクニック自体が冥想ではない。  
冥想とは、「観る」すなわち「正しく受け取る」練習をすること。心、体、生活を通じて物事を正しく受け取る練習をすることが、冥想だ。正しく受け取るためには、最高の科学性と哲学性を一致させなければならない。

2. 正しく受け取るためには、体・心・生活をきれいにしなければならない。
 ヨガの面から言うと、体でのそういう訓練をハタヨガ、心でのそういう訓練をラジャヨガ、生活でのそういう訓練をカルマヨガと言う。

3. ヨガという言葉の意味は「結ぶ」ということだ。何と結ぶか?神と結ぶことだ。我々は神様という言葉を使っているが、神様とは何か本当に理解している人は殆どいない。

4. その神様とは何かを捕まえるのが、冥想行法である。だから冥想行法以外はヨガ行法ではない。
 皆、ヨガだヨガだとやっているけれども、君たちのやっているのはどれもヨガではない。けれども、それがなかったら冥想行法へは入れないのだ。海で泳ぐときいきなり飛び込むと危ない。君たちがやっているヨガの体操は、水泳の前の準備体操のようなもの、「本当のヨガ」の準備体操のようなものだ。
 神様というのは純粋なものだ。純粋の状態を無ともいう。無の状態のことを自然ともいう。そういう状態のことを空とも言う。あるいは白紙ともいう。

5. 自分を無の状態にする練習のことを、冥想行法という。
 冥想という言葉は間違って使われている。考えたらだめだ。黙想、静想、静慮ではないのだ。「冥想に耽る」などという言葉はおかしい。
 冥想の「冥」の意味は「自分を空にして、広く深く感じる」という意味だ。
そうやって自分が純粋になれば、神に直結できる。自分と神様が同じ状態になる、ピタッと結びついた状態が、真我の状態、無我の状態だ。自分が自分にとらわていない状態だ。

6. なぜこの状態の練習が必要であるかというと、
 我々は、見たり聞いたり感じたりする時に、白紙の状態で、見たり聞いたり感じたりしない。自分がこれまでに体験したことに基づいて見たり聞いたり考えたりする。だから、一つのことを見る場合でも、人によって、また自分の状態によって、見方が違うのである。これを色眼鏡という。この色眼鏡の状態のことを「はからい」という。我々の身についたものが「正しく受け取ること」の邪魔をしているのだ。

7. 我々は俗世間に生きているから、無いものをあるのように思わされている。
 それを教育だ、知識だ、常識だと称している。無いものがたくさんある。
 例えば、国境。あれは人間が勝手に作ったのだ。飛行機に乗って見てみよ、何にも線などない。人間が利己主義の立場から勝手に線を引いたのだ。

8. 広く深く考え感じる。そして無の立場に立ったら、本当のことがわかってくる。
 例えば多くの者は「病気がある」と思っているが、病気などというものはない。ただの症状だ。非行者とか、不良児とか、悪人という者はない。赤ちゃんを見たらわかるだろう。赤ちゃんの詐欺師や不良児や非行者がいるか?赤ちゃんは悪いものは何も持っていない。我々だって初めはそうだったのだ。それがどうして段々おかしくなったのか考えてみるとよい。
 「今言ったようなものが無い」ということは、「あるものがある」ということだ。
実際の自分というものは「いのち」そのものなのだ。病気や悪人は、いのちが不自然になった状態だ。いのちが忠告を形として表し、教えてくださっているのだ。
 あるのはいのちだけで、そのことを沖ヨガでは、「生命即神」と言っている。

9. 冥想行法は放下行法である。
放下と言うと「捨てる」ことのように聞こえるかもしれないが、捨てる必要はないのだ。持っていなければならないのだ。持ったままで、そこへ利己主義、自己中心、自己本位のエゴを加えなければいいのだ。持っているものを神の心に従うように使えばよいのだ。
 神の心というのは愛の心だ。愛の心とは生かし合いの心だ。お互いを思いやり、助け合い、協力し合い、教え合う心だ。「愛」という特別のものではないのだ。お互い同士が必要な時に必要なように面倒を見合うのだ。

10. 私たちは自分の運命は自分で作るのだ。
 ということは、自分がどう感じるか、どう思うか、どう考えるか、どう行うか、ということだ。瞬間瞬間の自分の感じ方・思い方・考え方・行い方がすべて運命を決定する。
 ヨガは「自己の内に神を見る教え」である。これが、ヨガを中心にした教え(仏教やジャイナ教など)と他の教えを隔てる一大特徴だ。これがヨガの真髄だ。

11. 自然治癒能力と、仏性を高める。これ以外に神に直結する方法はない。

12. 不自然な状態を回復する基本のものが冥想行法だ。
全部元へ帰すのだ。冥想行法ができるようになったら、本当に何もいらない。それができるようになったら、身体の手当ても、心の手当ても一切いらない。これは難しい。そう簡単にはできない。だけど、途中まででも行くことは良いことだ。
ヨガで学んで途中まで行くことができる。

沖先生の三つの講義からー「冥想について」語られた言葉  」への13件のフィードバック

  1. 今ジャイナ教の瞑想、プレクシャメディテーションのいろいろなテクニックを習っています。ブログの中の『テクニックは冥想ではない。』大切なのは神と一つになること。
    今生でそんな瞬間があるのだろうか?と考えてしまいます。
    そして沖先生の『途中まででも行くことは良いことだ。ヨガで学んで途中まで行くことができる』の言葉に救われました。まず、心(魂)の穢れをとって行かなくては!
    前回のクラスで森先生が伝えて下さった。ネガティブな思いを良い方向に転換する事を試みています。

    • 小夜子さん、コメントありがとうございます。私も、あの12番目の最後の2行がとても好きで、一番最後においたのです。沖先生の
      暖かさと励まし、すべてのものへの愛を感じます。

  2. この12のお言葉はどれも胸に刺さり、また救われる気も致します。私の場合は、6・7・8がクローズアップされました。自我やエゴにカバーされている自分に改めて気づかされ、まずはそれを少なくしていくべく方向を決めることができました。

    • サユリさん、体験からの生の声を届けてくださり、ありがとうございます。この小さいブログが、みんながリラックスして静かに交流しながら励まし合える場になったらいいなと思っています。

  3. 2020年10月7日
    坂本知忠先生のプレクシャメディテーションのクラスで、森先生のこのブログの事を知りました。

    本日、坂本先生の話された事は、
    このブログのように
    正に沖先生の冥想のことでした。

    私は、1番の
    『観る〜正しく受け取る練習』
    『正しく受け取るためには、最高の科学性と哲学性を一致させなければならない』
    と、いうところからはじまって
    12 番目を読みおえて
    今の自分のモヤモヤした頭の中を整理して頂いた気持ちになりました。

    私は、何も考えず今日まで5年瞑想を習って、実践してきました。
    自分でもなんでやってるのか分からないけどやってきました。
    ヨガも体操のように10数年やってきました。

    やっているけれど、目的地の見えない日々でした。
    今日、坂本先生の講義と瞑想後に
    森先生のブログを読ませていただきました。
    これからも、
    冥想とヨガを続け続けたらいいんだ!
    と、思えたことで
    『目的地』を見つけられそうな気がしてきました。

    ありがとうございます

    • kazueさん、そうですね、機械的にやるようになると、せっかく良い目的でする刺激も、それに費やす自分のエネルギーももったいないですね。私自身にとっては今の段階では、「冥想」といって座っているより、自分の感受性を鈍らせないことが大事かもしれません。そして何かをキャッチしたら、面倒がらずに実行に移すこと。小さいことも大きいことも全部、その積み重ねでやっています。生活冥想と言えるかもしれません。生活で発生することが対象なので、マンネリ化はないです。むしろ、自分で人生を創っていっているような気がしています。いろんなやり方があるという一つの例です。今のKazueさんのスタイルを続けていって、少し変えたほうがいいなと思ったら(内側から来るサインに蓋をせず)、恐れず違うことも少しずつ試したらいいと思います。結局は自分の消化力・吸収力・統合力が高まって、物事を見る眼がだんだんに広く深っていけばいいのだと思います。体験からのコメントをありがとうございました。こういうコミュニケーションがまさに、このブログ活動を通じて私がやりたいことなので、うれしいです。

      • 森先生
        思い切ってコメントを書いて良かったです。
        ☆感受性を鈍らせないこと
        ☆キャッチしたら面倒がらずに小さいことも、大きい事も実行にうつすこと

        その言葉に勇気をもらいました。
        私も
        『自分の人生を創っいる』
        自分でありたいし

        その事で、他にお役に立てる事があるように感じています。
        こらからも、変化する事を恐れずに
        流れに任せて歩んでいきます。
        お返事をいただきありがとうございました。

        • kazueさんもここにコメントすることで、発信されているのだと思います。それぞれの場所で自分の小さい個性が光るよう、頑張りましょう!

  4. 大変参考になりました。40年前i、三島の道場に参加し、6日間、完全断食をした経験があります。その後は元の生活に戻ってしまっていましたが、子供が生まれ、それから毎朝かかさず、ヨガを実践しております。最近は、冥想にも興味がでてきましたので、大変参考になりました。ヨガのポーズは、体のひずみを取り除くことで生命力を高めることかなと思いました。また冥想では、心のひずみを取り除くことで、心を正常な状態に戻すことかなと思いましたが、更に先がありそうですね。心は、つい自分勝手で自己満足の世界を求めてしまうようですが、心を磨くことは、なかなか難しいこととではと考えます。しかし、前に進むことが大切なのだと、少しわかりました。ありがとうございました。

    • 福井さん、コメントありがとうございます。そうですね。どこまで行っても先があると思います。でも「今ここ」を大事にすることが繋がって時期が来たら、「あ、もうちょっとあの事を知りたいな」とか視点が多角的になっていくような気がします。その気づきやひらめきに沿って、また研究し実践でためす、それが沖先生の言われた「密教的な勉強の仕方」のように思われます。ゆったりしたペースで頑張りましょう!

      • 早速、御返事ありがとうございました。本校の美術の若い講師の先生が、沖先生に御興味があり、最近よくお話をしたり、本を貸したりしております。UKでもギャラリーを持たれていて、彫刻を御専門とされております。ご参考までに
        http://masa-s.co.uk/cv.html

    • https://okidoyoga.org.uk/reading.php に出している’Last Lectures’ のことでしょうか。すべてカジュアルな英文です。何回も読むうちにいろいろのことが読み取れると思います。航空便(通常なら6-7日)で送ることができます。重さをはかって切手代を調べると5ポンド70ペンスと出ましたので、封筒代と手間賃として80ペンス加え、6ポンド50ペンスを、ウェブページに出ている本代にプラスします。薄い本なのに高くなって残念です。日本に帰国するときは持参して日本から送ることができますが、今は無理ですね。Paypal でお支払いいただけます。購入をお決めになったらイギリス沖道ヨガのメールアドレス contact@okidoyoga.org.uk へ連絡してください。

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